大宝八幡宮の紹介(写真をクリックすると拡大写真を表示します。)

参堂南口から二の鳥居を望む

創 建

大宝八幡宮は、白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(701)、藤原時忠が常陸国河内郡へ下向の時、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという。

平将門公も戦勝祈願の為たびたび参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられる 「吾妻鏡」に下妻宮としるされ、文治5年(1189)奥州征伐平定の日 源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請し、摂社若宮八幡宮を創建した。

寛政7年(1795)には光格天皇より額字及び御紋付幕を賜り、明治19年には北白川宮より幣帛料が進納せられ、徳川家からは社領115石が寄進され代々の朱印が付されて現存すると共に、代々の大宝城主、下妻城主の崇敬がことのほか篤かったのは言うをまたない。 千古の連綿とした歴史の中で当宮から勧請された八幡宮は数えきれないが、東京深川の富岡八幡宮が著名である。

名 称

「大宝」という名称は、創建時の年号の「大宝」に由来し、大宝という年号は、3月に対馬の国から金が献上されたので文武天皇が「大宝」と改元したといわれる。それまでは年号で呼んだり、年号をつけずに持統、天武など天皇の御名で呼んだりしていたが、これ以後は年号で呼ぶことが定着している。 年号はタイホウと読むが、大宝八幡宮は、訛ってダイホウと呼ばれている。千古の歴史を秘めた大変目出度く、由緒のある名称である。

祭 神

祭神として、応神天皇(誉田別命ほんだわけのみこと仲哀天皇(足仲彦命たらしなかつひこのみこと神功皇后(気長足姫命おきながたらしひめのみこと)の三柱を奉斎している。祭神は弓矢の神、即ち武の神として古来より尊崇されている。古くは平安時代の平将門ら常陸平氏、八幡太郎源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、南北朝時代の下妻政泰、そして戦国時代の下妻城主多賀谷氏などの武将がこぞって参詣し、武運長久・必勝などの祈願をしている。時は流れ、今は財運招福、厄除け、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産の祈願所として信仰崇敬されている。

史 跡 

 大宝城跡 国指定文化財(昭和9年5月指定)

境内は平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡でもあり、西、北および東方の一部をもとの鳥羽の淡海(大宝沼)に囲まれた東西288メートル、南北576メートルの台地であり、東方も古い時代には沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。

 ここに平清朝公が築城し、北を本丸、南を追手、東を搦手とした。応徳3年(1086)下津間盛幹公が初代城主となり、約100年後4代下津間弘幹公にして下津間氏は終わりを告げた。源頼朝公の命により大宝城のあとは小山朝政公が治め、小山氏は代々下妻氏を名乗った。

 6代政泰公の代に至り南北朝時代となり、興国2、(暦応4)年(1341)11月、常陸国司春日中将顕時公が若き興良親王を奉じて小田城より入城し、東国における南朝方の拠点として、関城主宗祐、宗政父子と相呼応して義旗を翻したが兵糧不足と迫る寒気のため落城した。

御 神 徳

八幡大神様は、その御代に治山治水・学問・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・縫製・紡績その他あらゆる殖産興業の途や、衣食住等人間生活の根源を開発指導された文化の生みの親神であると同時に、武の道をつかさどる神としても世に名高く、まさに一切生業の守護神であられる。

御霊験はいよいよあらたかにましまし、大宝の御名に示されるように、財運招福の願い、厄除、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産等の諸願を託す人が多く、日々の生活に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、その御神徳は広大にして無辺である。

参道南口から二の鳥居を望む

神   門

神 楽 殿

拝殿

拝  殿

摂社若宮八幡宮

摂社若宮八幡宮

祖霊殿

祖 霊 殿

下妻政泰公の碑